ともちゃん の成長1


 ともちゃんは1989年7月25日に大阪の通天閣の見える病院で生まれました。実はともちゃんは双子でした。お母さんのお腹の中でもうひとりの赤ちゃんが亡くなってしまったために、自宅近くの病院から未熟児センター(新生児集中治療室)のあるこの病院まで救急車で渋滞の阪神高速をサイレンを鳴らしながらやってきました。そして、すぐお母さんのお腹を切って生まれました。お昼の12時8分で、病院では丁度昼食時でエレベータで給食を運んでいるときだったのですが、ともちゃんが地下の手術室から4階の未熟児センターまですぐに上がれるように、お医者さんの指示でお父さんが何十分もエレベータを止めて待っていました。

 妊娠29週での出産で1530グラムでした。保育器の中で大切に育ててもらいましたが、生後2週間目に頭の大きさの成長が異常であったことから、詳しい検査をしました。その結果、脳に損傷を受けていることがわかりました。原因は、一卵性の双子のひとりが胎内で亡くなったために、その子の固まった血が胎盤を通じてともちゃんの脳に入り、脳血栓の状態を起こしてしまったためと言うことでした。そして、将来障害を持つことになると思うが、最終的にどういう障害になるかは今はわからないとのことでした。

 未熟児としての心配事はいくつかありましたが、幸いにそれらはうまく解決できて、9月26日、2520グラムで退院することができました。待ちに待った家での生活でしたが、11月には肢体不自由児の機能回復のための訓練施設に1ヶ月間、母子入園しなければなりませんでした。赤ちゃんの時に受けた脳の損傷は小さいときから訓練をすることによって、大きくなってからの障害の程度を小さく押さえることが出来るということだったからです。

 お母さんにとって、この訓練が、一番のストレスになっていきます。母子入園したときは障害児の親同士で友達になれるかもしれないと思っていたのですが、そうではありませんでした。現在、偶然にも当時母子入園していた方と仲良くしてもらっていますが、入園中からずっと親しかったのではありません。入園中は、それぞれのお母さんが将来子供が障害を持つことを受容するのに苦しみ、訓練さえ一生懸命すれば何とかなるのではないかという期待で、訓練を覚えるのに必死でつらい時期でした。

 ともちゃんの家庭は共働きで、ともちゃんの3歳上のお姉ちゃんもお母さんの産休明けから共同保育所に通い、次の4月からはずっと公立の保育所に通っていました。お母さんは働き続けることを希望していましたし、ともちゃんの障害も今はどうすることもできないし、どうなるかもわからないので、ともちゃんの体重が5kgを越えたころ、予定日から2か月過ぎてから、お姉ちゃんが通っていた共同保育所へ通い始め、お母さんは職場に復帰しました。1日4回の訓練をすることが、ともちゃんの日課でしたが、幸いお母さんの職場ではフレックスタイム制が導入されており、保育所に訓練に通わせてもらいました。

 この頃のともちゃんは、今のやせた姿からも未熟児で小さかった姿からも想像がつかないくらい、まるまると太っていました。母子入園した頃から母乳もよく飲んでいました。しかし、このころから既に筋肉の緊張が強く、ベッドに寝ていても、両手をWの字の形に開いたまま、床にはおろさず空中に止めたままの姿勢でした。保育所の先生がこのままでは手がだるいだろうと言って、タオルを丸めて腕と布団の隙間にいれてくれていました。ともちゃんは他の赤ちゃんに比べて泣き声もか細いねとも言われていました。

 登所し始めてしばらくして、いつも飲んでいた薬を出してもらうために、ともちゃんは近くの病院を受診しました。丁度、保育所では風邪気味のようで母乳の飲みが悪いと言われていました。受診結果は気管支炎と肺炎で入院が必要とのことでした。こんなに身体が弱いと思っていなかった両親も先生もびっくりしましたが、この後もともちゃんはしょっちゅう入院しています。医療のおかげで今まで元気に生きてこられたと感謝しています。結局、ともちゃんは初めてのお正月を病院で過ごしましたが、ひどくならずに回復しました。

 親も保育所もともちゃんが虚弱な赤ちゃんであることを認識したので、姉の時とは違い慎重に登所しました。病後は長めに家で養生したり、少しいつもと様子が違うとお休みをしました。保育所を休んだ日は、母方のおばあちゃんと過ごしました。それからも、お母さんが働き続けるためのおばあちゃんの協力は多大なもので、ともちゃんは両親と保育所とおばあちゃんで協力して育ててきました。12月に入所してよく休んだ共同保育所でしたが、3月は比較的よく通うことができました。そして、0歳の4月からは姉と同じ公立の保育所に入所できました。