ともちゃん の成長3


 2歳になってだんだん入院する回数が減ってきました。大きくなるとやっぱり体力がついてくると家でも保育所でもうれしく思っていた頃でした。お母さんが昼休みにボイタの訓練に行くと、先生が待ちかまえていて「電話しようかとも思ったのですが、もう来られるかと思って待っていました。」と言われました。ともちゃんは所長先生のおられる事務所のベッドで体を丸めて眠っていました。全身には盛り上がったかゆそうな発疹が出ていました。離乳食を始めていて、卵を食べたら、全身にじんましんが出たそうです。その上呼吸までしんどくなって顔色が悪くなったのですが、今は落ち着きましたとのことでした。その後、全身がかゆくてもかくことのできないともちゃんは、体をぎゅっと縮めて「うーうー」とうめいていたので、タオルで軽くこすってもらっていたということでした。

 これがともちゃんがアレルギー反応を起こした最初でした。病院での検査で食物アレルギーがあることがわかりました。アレルゲン(アレルギーの原因)となる食品を除去して与えなくてはなりません。最初の検査でアレルゲンは小麦、卵、大豆でした。しかし、その後別の食品を食べるごとにアレルギー反応による呼吸困難(気道がはれる)をおこし、病院へ急ぎました。救急車のお世話になったこともあります。検査対象を広げれば広げるほどアレルゲンは見つかりました。魚(赤身も白身も)、魚介類、鶏肉なども除去しなくてはならなくなり、今では反応の出ない、制限なく食べられるタンパク質は牛乳と豚肉だけになっています。

 アレルギー反応として、新たに喘息発作も起こるようになってきました。ぜろぜろとタンが涌いて、ひゅーひゅーとのど元のへっこんだ苦しそうな呼吸になりました。発作は夜や明け方に起こります。上体を起こしていると少しは楽になるようなので、一晩中抱っこで背中をさすって過ごすこともよくありました。発作が続くと体力は消耗し、食事も水分も取ることができなくなり入院になりました。大発作の時はこのまま呼吸が止まってしまいそうで、病院へ急ぎました。休日でも夜中でも時間外診療を行ってくれる今のかかりつけの病院は本当にありがたく、しょっ中お世話になりました。夜中に受診してそのまま入院するということもよくありました。

 成長すると体力がついてきて、入院することもなくなるという楽観的な予想は裏切られました。それどころか、食物アレルギーと喘息で入院はぐんと増えました。ともちゃんが大きくなればともちゃんの命の心配をすることなく、無理なく働くことできると信じて働き続けてきたお母さんの気持ちがぐらついてきました。それでも、障害児の母でも働き続けてみせるという意地もあって仕事をやめるということは考えられませんでした。体力のないともちゃんにしわよせがいくことはやめたい、仕事にも全力を注ぎたいという矛盾によるストレスでお母さん自身が体を壊して入院してしまうという事態まで起こってしまいました。

 おばあちゃんにも随分お世話になりました。ともちゃんの体調が悪いときは、無理しないように保育所を休んで家で見てもらいました。ともちゃんは1か月のうち半分も保育所に登所できない月が続いていました。保育所では特別に教室にベビーベッドを置いてもらいました。ともちゃんはまだ首もすわらず、泣くことしかできません。友達との発達年齢はどんどん広がっていきました。もう誰が見てもともちゃんは重い障害を持っていて、友達に追いつくことは不可能であることは明らかでした。それでも、ずっと一緒に育ってきた友達やそのお母さん達はともちゃんの存在を自然に受け入れてくれました。長い間休んだ後でさえ、登所すると「ともちゃーん」と友達が駆け寄ってきてくれて、手やほっぺを優しく撫でて歓迎してくれました。ともちゃんはまだそれに対して笑顔で答えることは出来ませんでした。

 1993年4月、おじいちゃんが心筋梗塞の手術で入院中にともちゃんも入院するという事態が生じました。今までのようにおばあちゃんの助けを借りるわけにはいきません。お母さんも、一時期頑張れば、やがては重症心身障害児を抱えても普通に働けるようになるとは思えなくなっていました。いつまでもおばあちゃんの世話になっていてはいけない、お母さん自身がともちゃんの体調をすべて把握して、ともちゃんに寄り添って生きていくすべを考えなくてはならないと思い始めていました。しかし、まだ仕事には未練があったので、できたばかりの介護休職制度を利用させてもらいました。

 この頃から、お母さんは積極的に障害児の通園施設や養護学校の見学を行いました。障害者団体の主催する講演会や研究会にもさかんに参加するようになりました。今まではお母さんが働き続けるという環境を前提に、ともちゃんに不利にならないようにと考えて生活してきました。今度はお母さんが働いていなかったとすれば、ともちゃんはどんな生活をさせてやることができるのだろうという視点で考えてみました。それから、「将来(学校入学後や卒業後)、ともちゃんはどういう生活をすることになるのだろうか。働き続けることができるだろうか、それとも何かしなければならないことがあるのだろうか。」と考えました。

 お母さんが一番強く感じたことは、障害児は個々に違うと言うことでした。重症心身障害児と呼ばれる子供達も全く同じ状態の子供はいません。一人一人、生活の上で絶対考慮しなければならないこと、援助を必要とすることが異なります。まわりの人(家族や社会)はその子の状態に応じてその時々に必要な援助をしていかなければ、その子が無理を強いられることになります。働き方もともちゃんの体調に応じて変化させる柔軟性を持たなければいけないと思いました。世の中には障害児を抱えて働き続けているお母さんがたくさんおられます。お母さんは、今までのように「他の人にできて私にできないはずはない。」と考えることは止めました。子供の状態や周りの条件が一人一人違うのですから。

 介護休暇が終わりお母さんは再び職場に復帰しました。ともちゃんは通園施設には行かず、今まで通り保育所に通いました。ともちゃんの状態をよく把握していただいている保育所の先生は大変信頼していたし、一緒に育ってきた友達もいました。この頃からともちゃんは機嫌がよければ笑顔を出すことができるようになってきました。まだ首もすわらず相変わらずベビーベッドを置いてもらっていますが、友達が教室で活動するときは先生に抱っこしてもらって参加しました。でも遠くへの散歩の時などは無理して一緒に行くことはせず、赤ちゃんクラスにお邪魔させてもらって一緒に遊ばせてもらいました。給食はアレルゲンを除去した専用のものを作っていただきました。うまく、噛むことの出来ないともちゃんのために専用のミキサーでペースト状にして与えてもらいました

 1995年1月ともちゃんの入院が続き、結局お母さんは仕事を辞めました。いろいろ考えていたので迷いはありませんでした。これからは「ともちゃんのお母さん」という立場でともちゃんのことを多くの人に知ってもらいたいと思っています。仕事で果たそうとした自己実現を、今度はともちゃんの生活を通じて「障害児は1人1人違うんだ。」ということを世の中に知ってもらうことで果たそうと思っています。思えば、ともちゃんが保育所で健常児の中に無理なく入って行けたのも、ともちゃんの様子を赤ちゃんのときから先生も友達もその保護者もいっしょに知って、障害を理解してもらえたからだと思います。これはともちゃんにとって幸せなことでした。障害児が健常児の中に受け入れられるときも、障害児同志が交流するときも、それぞれの子供の状態を正しく理解してもらってその子に必要な援助を受けられたら幸せです。社会全体がこの一人一人の違いに応じた援助を行ってくれることこそがノーマライゼーションの理念であると思います。