ともちゃん の日常15


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1999年8月以前(ともちゃんの日常14へ)

1999年9月

18日(土)
「出遅れ2学期」

26日(日)
「運動会 '99」

27日(月)
「お姉ちゃんの中学校」

1999年10月

30日(土)
「しんどかった10月」

1999年11月

12日(金)
「牛乳が飲めない」

2000年1月

3日(月)
「2000年を迎えて」

2000年3月

3日(金)
「1か月以上の入院生活」

9日(木)
「鼻からミルク」

12日(日)
「在宅酸素」

26日(日)
「口からお粥」

2000年4月以降(ともちゃんの日常16へ)


1999年9月18日(土)

 8月28日、夏休み最後の土曜日の朝、ともちゃんはいつも通り牛乳を飲んでいました。そのとき、これもまた毎朝のように起っていることなのですが、全身が硬直するタイプのけいれん発作が起こりました。時間はいつもの硬直発作より少し長くて15秒くらいでした。その間、お母さんは顔を横に向けて、ぎゅっとともちゃんを抱きしめました。

 普段はこの程度のけいれん発作なら、このままともちゃんは通常の状態に戻ります。今回もそのつもりで、お母さんはともちゃんの顔を覗き込みました。しかし、唇の色は赤紫色になっていて、喉元が深くへこむ呼吸をして、小鼻がヒクヒクしています。ともちゃんは「ンゴー」と思い切り空気を吸い込んでいるのに、空気が入らないような感じです。お母さんはあわてて酸素ボンベの栓を開けて、ともちゃんの鼻に酸素マスクをあてがいました。

 その後、パルスオキシメータを付けると、一時的に酸素マスクを外した状態では血中飽和酸素濃度が91%と低い値です。酸素マスクを着けていても、ともちゃんはまだ苦しそうな呼吸をしています。酸素の流量を毎分2Lから5Lにすると、呼吸も楽そうで酸素濃度も98%になるので、しばらくそのまま様子をみることにしました。

 ゆっくりと時間をかけて、血液中の酸素濃度を見ながら、吸入している酸素の流量を下げていきました。1時間ほどして、ともちゃんの呼吸が酸素吸入なしでも落着きました。その間、2度、吸引をしました。ともちゃんは、吸引で咳をしていましたが、はっきりと痰が吸い取れたという手応えはありませんでした。

 お母さんは今回の呼吸困難の原因として、牛乳の誤嚥を疑いました。もしそうなら、今後誤嚥性肺炎の熱が出るかもしれません。今は落着いていても、それなりの覚悟が必用です。抗生剤も早く飲んでおいた方がいいかもしれません。病院の時間外診療を受診して、レントゲンをとってもらいましたが、幸い誤嚥ではありませんでした。

 結局、一時的な呼吸困難の原因は分かりませんでしたが、用心のためにしばらく抗生剤を飲んでいました。以後、ともちゃんはパルスオキシメータにつながれる身となりました。そして、日に何度か血液中の飽和酸素濃度が90台の前半になって、吸引するということが続いています。28日は気道に硬く貼付いていた痰が、その後だんだんと浮いてきて吸い取りやすくなってきたように感じます。

 そう言えば?8月下旬頃、予測式電子体温計(水銀の体温計より0.2度から0.3度高く出ることが多い)での体温が37.7度ぐらいの日が続いていました。それ以上上がらないので、お母さんもお父さんも夏季熱だと思っていました。(ともちゃんは体温調節が下手でよく夏季熱を出します。)しかし、ひょっとすると風邪のかかりはじめで、微熱が出て痰が気道の奥の方に湧いていたのかもしれません。

 朝起きてきた時や、朝食をとっている時に血中飽和酸素濃度が下がって、吸引が必要となります。8月28日にパルスオキシメータを付けてから、今日まで朝の吸引は毎日行なってきました。起床直後に吸引せずに済んでも、分泌物が喉の奥に湧いている時はいつもより頑張って呼吸をしているのに、小さくてもけいれん発作があって呼吸を始め身体の活動が抑制されると、それをきっかけに呼吸困難になるようです。特に飲食しているときは、余計に呼吸がしにくくなります。

 いままで風邪で入院した時でも、風邪がよくなると血中飽和酸素濃度は安定し、吸引はまったく必要ありませんでした。今回長い間吸引を必要としているのは、季節の変わり目で痰が長く湧いているのかもしれませんし、思春期を迎えようとしているともちゃんの体調(重症心身障害児は思春期に体調が悪化することがあるといわれています)のためかもしれません。

 いずれにせよ、今の状態はそれほどひどい状態ではないので、吸引しながら、ともちゃんの様子を見ています。朝吸引しても、昼間は元気な日も多く、朝の様子をみながら短時間だけの登校もしています。スクールバスで登校して、朝の会に参加して、学校で吸引してタクシーで帰宅というケースが続いています。

 学校でのともちゃんの体調が良い時は表情もよく、朝の会の雰囲気も楽しんでいます。やっぱり学校が大好きです。今日は土曜日でお父さんの車で送迎してもらったので、少し長い時間学校で過しました。初めて運動会の練習(入場行進)に参加しました。来週の運動会には元気で参加できるようになりたいものです。

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1999年9月26日(日)

体調を崩して、学校を休んだり登校しても早退していたともちゃんは、学校に完全復帰できないままに運動会を迎えました。今朝もスクールバスには乗れず、家族と一緒にお父さんの運転する車で登校しました。今日も午前中だけの登校で、昼食を食べずに早退する予定です。

 小学部の出場する種目は障害物走とダンスです。今年の障害物走は、昨年以上に子ども一人一人のできる事を重視した構成になっています。ともちゃんのような知的障害と身体障害が重複する子供達と、知的障害だけで元気に動き回れる子供達のコースは最初から別々に設けられています。重複障害の子供達、知的障害の子供達がそれぞれ紅白に分かれて、4人が同時にスタートするというリレー形式を取っていますが、実際は速さを競うわけではなく、個人演技として見せるのが目的です。

 重複障害の子供達の短いコースは観客席に近い側に設けられていました。マットの上で寝返りをして、トンネルをくぐり、ボール(玉)を取ってドラミちゃんの絵のついた的の中に入れて、階段3段程度の小さな滑り台を滑ってゴールするというのが標準のコースです。先生は寝返りさせたり、抱っこしたりと全面的に介助して下さいますが、それでも対応できない個所はそれぞれに合せてうまく変えてもらっていました。

 ともちゃんの場合は、マットの代わりに毛布ブランコに乗せてもらいました。また、通常のトンネルの代わりに、車椅子に乗ったまま通れる、テープや布がヒラヒラ垂れ下がるトンネルを作ってもらいました。車椅子に乗ったままボールを先生に取ってもらい、先生に手を添えてもらって的の中にボールを入れます。最後の滑り台では再び車椅子から降ろしてもらい、先生2人がかりで抱えられるようにして滑り台を滑らせてもらいました。

 障害物走の内容についての話を聞いた時、スタートしてからゴールまでに何度も車椅子の乗り降りがあることが、お母さんには危険に思えました。ともちゃんは首も座らず、座位も取れません。あせって車椅子の昇降をすることで、身体の一部を引っかけたりぶつけたりしないか心配でした。これについては、先生方も考えて下さり、二人の先生がついてゆっくりと介助してもらうことになりました。

 ともちゃんは毛布ブランコに大喜びをしていたそうです。ブランコがゆれている間は毛布の中にいるので、ともちゃんの様子は観客席から見えません。でも、ともちゃんの乗った毛布がマットの上に置かれた時に、お母さんにも毛布の中からニコニコ顔のともちゃんの姿が出てきたのが見えました。

 一方、ダンスの方は、今年は衣装に少し凝っていました。手に持つポンポンの色ごとに一団で行動するのですが、着ているTシャツもポンポンと同じ色に揃えました。ポンポンの色は赤、青、黄色、オレンジの4色です。ともちゃん達、3、4年生は黄色チームでした。ポンポンのついた竹を打ち鳴らす音、みんなで引っ張る綱につけられた鈴の音、色の違いなど、ともちゃんはみんなで踊るダンスの雰囲気を味わってくれたと思います。

 ダンスの後、ともちゃんが何度もあくびをしていて、疲れてきたことが分りました。少し迷いましたが、すぐ次のプログラムの応援合戦に出てから帰ることにしました。ともちゃんの白組はキロロの「砂に書いたラブレター」の曲に合わせて、青色や白色のポンポンを(先生に手を添えてもらって)振るのです。最初に高等部のお兄さんが「応援合戦、がんばるぞ!」と言うのに合わせてみんなが「おー!」と歓声を上げるのを聞いて、ともちゃんは笑顔を見せてくれました。

 ちょっと頑張って応援合戦まで参加したので、ともちゃんは帰りの車に乗るとすぐにくたーっと眠りました。今のともちゃんにとっては、午前中だけの運動会がちょうどよい活動でした。これからは、もう少し長い時間学校で過せるようになればいいなあと思います。

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1999年9月27日(月)

台風が来て暴風警報が発令されたために、先週の金曜日は学校がみんな休校になりました。この日はお姉ちゃんの中学校の学校祭文化の部(文化祭)が開催される予定でしたが、本日に延期されました。ともちゃんにとっては、今日は運動会の振り替えで養護学校がお休みです。散歩がてら、お姉ちゃんの中学校の文化祭を覗いてみることにしました。

 実はともちゃんがお姉ちゃんの中学校を訪ねるのは始めてではありません。2週間ほど前のことです。養護学校を11時ごろに早退してきたともちゃんとお母さんが自宅に入ろうとしたとき、お母さんが家の鍵を家の中に置き忘れてきたことに気がつきました。鍵はお姉ちゃんが掛けて出ているので、中に入ることができません。ともちゃんのマンションは、管理人さんが各部屋の鍵を持ってるという訳ではありません。

 「お姉ちゃんの学校に行こう。」とともちゃんに話して、お母さんは車椅子を押してエレベータで下に降りました。中学校は高速道路の下の道を歩いて10分程のところにあります。とりあえず正面玄関から入り、職員室に行ってお母さんが事情を話しました。話を聞いて下さった先生は、すぐさまお姉ちゃんのクラスの時間割を見て、「教室で勉強していますから教室に行って下さい。」とおっしゃいました。

 しかし、お姉ちゃんの教室は2階です。「あのお、車椅子の妹を連れているものですから・・・。」とお母さんが躊躇していると、別の先生が「私が取ってきます。」とおっしゃって、すぐにお姉ちゃんの教室に行って家の鍵をもらってきて下さいました。お母さんは本当に申し訳なく思って何度もお礼を言って受け取りました。この間、ともちゃんはずっと緊張していたのか、硬い表情をしていました。

 お母さんの大失態のお陰で図らずも中学校を訪ねたともちゃんでしたが、この間すぐに吸引が必用になるというような緊急事態にならなかったのは何よりでした。お姉ちゃんからは「お母さん、なんで鍵なんか忘れたんや。数学の先生が前の入り口から入ってきて、一番後ろの席の私に、『お母さんが鍵貸してほしいと学校に来ているよ。』と大声で呼び掛けるから、恥ずかしかったやんか。友達はみんな唖然としてたわ。」と叱られたお母さんでした。

 さて今日は9時半頃に家を出ました。プログラムによると展示物の見学時間は11時からのようです。しかし、生徒や保護者がたくさん詰掛ける時間帯では、展示会場の中が混雑していてともちゃんの車椅子が通れないかもしれません。それで、ちょうどともちゃんの散歩の時間帯に、一階の展示室だけをこっそりと見せてもらおうと思ったのです。

 しかし、この時間帯に展示会場をウロウロしているのはともちゃんだけではありませんでした。ともちゃんの目当てはお姉ちゃんの美術部の展示と美術室、理科室、家庭科室です。ともちゃんは知らないところに来たと思っているのか、お母さんが話しかけても表情がゆるみませんでした。それでも、人がいなくなるのを待って美術部の作品の前で記念撮影をしました。

 最後に家庭科室に寄りました。家庭科室と理科室には夏休みの宿題が、美術室には授業で描いた絵が展示されています。もちろん、お姉ちゃんの作品もあります。家庭科室では技術家庭の先生が最後のレイアウトをされていました。先生はともちゃんを見つけて、ともちゃんの顔の前で「こんにちは。」と声をかけてくださいました。でも、ともちゃんは表情をかえませんでした。養護学校では体調が良いと先生の声に反応しますから、知らない声だと分かったのでしょうか。それとも、少ししんどかったのでしょうか。

 このあと、空気が少し抜けた車椅子のタイヤが家庭科室の床に擦れて、キュウキュウと音を立てると、ともちゃんは一人でギャハハハと笑っていました。お母さんは、わざわざともちゃんに近づいて声をかけて下さった先生に、ちょっと悪いような気がしました。でも、ともちゃんにとって知らない人の声だと分かった(というより感じた)ことはすごいことなのです。

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1999年10月30日(土)

 運動会やお姉ちゃんの文化祭に行くことができたともちゃんは、このまま体調が良くなるかと思われたのですが、いまだに体調の不調が続いています。入院にはならずに済んでいるものの、ともちゃんにとって10月はしんどいままに終りました。もちろん、遠足や音楽会という恒例の秋の行事には参加できませんでした。

 10月前半の不調は、痰のからみが主な原因でした。9月30日の朝、痰のからみが少しあったのですが、吸引して何とかスクールバスに間に合せました。バスの中でともちゃんの顔色はさえず、元気がありません。早めの処置が大切なので、いつも持ち歩いているスポーツ用の酸素スプレーで酸素を吸入しながら、バスの中は持ちこたえました 。

 バスの中でうまく痰が切れなかったので、学校に着くとすぐに保健室で痰の吸引をしました。引っかかっていた痰は吸引することができましたが、相変わらず空ろな顔つきなので、そのままタクシーで帰宅しました。ともちゃんは、体調が良いと生き生きした目つきで教室の中をキョロキョロ眺めたり、友達の気配に反応したりしてくれますが、この日はそれが全くありませんでした。

 以前のように、家ではほとんど吸引しなくてもよい状態になるまで(それでも学校では吸引が必要になることもありますが)、ともちゃんは家でじっくりと腰を落着けて静養することにしました。登校できるかなあと迷いながらの登校では、余力のないともちゃんにとっては命の危険があるからです。自宅でパルスオキシメータと吸引器と酸素ボンベに囲まれていると安心です。

 こうして静養している間に、ともちゃんは牛乳が飲めなくなってしまいました。痰がゼロゼロしていなくて呼吸が落着いている時でも、牛乳を飲むとパルスオキシメータの示す動脈血中に取込まれている酸素濃度が下がってくるということが何度か起りました。重症心身障害児の場合、痰などの分泌物が多いときに牛乳を与えると、牛乳は粘性が高いのでよけい痰が絡むということは一般的に言われています。

 しかし、ともちゃんは今まで痰が絡んで呼吸がしんどくなり入院した時でさえ、長期に渡って牛乳が飲めなくなったことはありませんでした。少し症状が軽減されると、吸引の合間に問題なく牛乳を飲んでいました。食物アレルギーがあり、摂取できる蛋白質が限られるともちゃんにとっては、牛乳は数少ない大切な蛋白源です。今でも牛乳を飲めずにいるのですが、困ったことです。

 ゆっくりと療養していたかいがあって、10月半ばには一度回復の兆しを見せて、ぼちぼちと登校を始めることができました。短時間の登校から始め、午前中だけの登校になり、学校で昼食を食べてスクールバスで下校するという日もありました。学校でのともちゃんの嬉しそうな表情を見ていると、お母さんも嬉しくなります。そして、もっと元気になって毎日登校できるようになることを願いました。

 ところが10月後半もまた不調になり、今度は痰の絡みだけでなく熱も出てしまいました。再び痰の絡みがひどくなったので学校を休んでいましたが、24日から熱が出てきました。ともちゃんは今まで風邪などの感染症にかかると、いきなり39度や40度の高熱が出ていました。今回はいずれも38度台で、それも午前中は何ともないのですが、昼食時より夕方までだけ熱が出ます。それで、家で様子を見ていたのですが、3日目には病院に行き、点滴をしてもらいました。

 熱が下がってからも、今度は食事がなかなか進まないという状態が続いています。口が開かないし、たまに開いて食事を入れてもゴックンがうまくできずにベーッとこぼしてしまいます。また、しんどい様子でウトウトする時間が長くなっているのですが、食事を頑張ればそれだけでよけいにしんどくなっているようです。一日中食事にかかっているようで、介助しているお母さんも気が滅入りそうになりますが、本当はともちゃんが一番辛いでしょう。明日は少しでも元気になることを祈って、ともちゃんのペースに付き添っていきます。

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1999年11月12日(金)

 まだまだ足の親指に付けたパルスオキシメーターのセンサーが外せないともちゃんですが、比較的体調の良い時は短時間だけでもと登校しています。けれども、ともちゃんの表情が硬いままだったり、登校したことで興奮してけいれん発作が起ったりと、完全復帰への道は順調ではありません。

 昨日はけいれん発作で休んで、今日は2日ぶりに登校しました。朝はスクールバスに乗れるように頑張って用意をしたので、学校に着いた時は少し疲れたような表情をしていました。でもお母さんの予想に反して、それからはたくさんの笑顔が出ていました。この様子なら、お弁当を持参していれば1日学校で過せたかもしれないと残念な思いで早退しました。

 家での昼食も、いつになくスムーズに進んでいます。その後昼寝もしっかりとしました。元気な頃のともちゃんの生活が戻ってきたようで、お母さんは嬉しくてたまりません。ともちゃんの本格的な回復には、パルスオキシメーターが外れることと、牛乳が以前のように飲めるようになることが必要です。

 今日学校であった体重測定では、10月の不調のためにともちゃんの体重が0.7Kgも減少していました。栄養的にも、ともちゃんにとって数少ない蛋白源である牛乳を早く飲めるようになって欲しいと思います。今日は吸引をせずに済んでいるし、牛乳復活のチャンスです。午後のおやつとして、ともちゃんに牛乳を飲ませました。

 150ccの牛乳をともちゃんはおいしそうに20分ぐらいで飲みました。以前のようなペースです。その間、パルスオキシメーターが示す血液中の飽和酸素濃度も96%以下に下がることはなく、牛乳復活は大成功かと思われました。しかし、飲んだ直後から飽和酸素濃度がどんどん下がり出し、90%になりました。吸引しましたが痰は吸えず、酸素ボンベから酸素吸入することにしました。

 ともちゃんが牛乳を飲み終って15分後から、心拍数も1分間に130回と速くなりだし(通常は110くらい)、両眼も充血して真っ赤です。酸素はずっと吸入したままです。酸素を投与しているお陰で、飽和酸素濃度が100%近くになって落着いて様子を見守ることができますが、本当に大変な状態になりました。

 飲み終って1時間経過すると、両眼の充血が引いてきました。このことから考えると、ともちゃんの今回の充血は眠たいからとかではなくて、明らかに牛乳を飲んだためということになります。1時間30分後、心拍数は1分間に100から110と落ち着き、酸素マスクをはずしても飽和酸素濃度が下がらなくなりました。

 詳しいことは診察を受けないと分かりませんが、牛乳でアレルギー症状が出たようです。お母さんは今回の騒動でともちゃんのせっかくの回復の兆しが崩れてしまわないか心配です。ともちゃんが元気になってきたからといって、余計なことをしてしまったという反省で一杯です。また牛乳アレルギーになってしまうと、ともちゃんの食べられる蛋白質が一段と減ってしまうので、こちらも困ったことです。来週はアレルギー外来を受診しますから、しっかりと聞いてこようと思います。

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2000年1月3日(月)

 ともちゃんは昨年の11月12日から、ずっと学校を休んでしまいました。熱が出たり、喉が痛いのか全く食事が取れなくなったり、痰がひどく絡んで頻繁に吸引していたり、呼吸が不安定で酸素吸入が必要になったり、嘔吐したりと、次から次に新しい敵が現れるのです。ともちゃんの強い味方である吸入器、吸引器、パルスオキシメータ、酸素ボンベの力を借りて、日帰りで病院に点滴に通ったりして、何とか入院せずに自宅で頑張っています。

 けれども、それまでのともちゃんの状態に比べて、登校するためにクリアしなければならない問題があまりに多く、学校というものが遠い存在になったまま冬休みを迎えてしまいました。先生に家まで届けてもらった通知表の出席の記録の欄は20勝(出席)65敗(欠席)の完敗という結果でした。20日間の出席もまるまる1日出席できた日はありません。遅刻か早退をしながらなんとか登校できた日です。

 このような調子ですから、2学期の行事のうち出席できたのは運動会だけでした。残念ながら、遠足も音楽会もむつみ祭(文化祭)も今回は欠席でした。夏休み明けに17kgになっていた体重も、昨年末には15kg台まで減ってしまいました。自宅でゆっくり静養しながらしっかりと食べて、体重も増やしていきたいものです。そして、徐々に元気になって、今年はもっとたくさん登校できればと思います。

 ともちゃんのような重症心身障害児は、単に体が不自由、知的な発達が遅れているというだけではなくて、体力的にも余力がなく、ぎりぎりのところで命をつないで生きています。したがって、体が急激に大きくなったり、ホルモンのバランスに変化が生じ始める思春期の入り口で、内臓の機能が追いつかなくなり、体調不振なることがあると聞いていました。

 ともちゃんにとって、今がちょうどその時期にあたるのかもしれません。無理せず慎重にゆっくりと家で療養していきましょう。元気になれば、学校でも、お出かけでも、また以前のようにたくさん経験することができるのですから。自宅で療養中のともちゃんも、体調がいい日には、家族の話しかけにたくさんの笑顔を見せてくれます。今年も、ともちゃんの人生に楽しいことがたくさんあることを願いながら、新しい年を迎えました。

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2000年3月3日(金)

 昨年の秋から長い間自宅療養していたともちゃんですが、1月26日にとうとう入院となりました。時間をかけて何とか食べたものを嘔吐してしまい、全く水分が摂取できなくなったからです。そして病院で1か月余り過ごし、3月3日の雛祭りの日にようやく退院することができました。今回は、ともちゃんにとっても、付添っていたお母さんやお父さんにとっても、本当に苦しい闘病生活でした。

 入院当初は痰の絡みがひどく、呼吸状態が安定しません。本来なら、吸引のカテーテルを鼻腔に挿入すれば、それが刺激になってコンコンと自分で咳込んで痰が切れるものなのですが、ともちゃんには咳込むだけの活力もなく、動脈血中の飽和酸素濃度が低下しても、なかなか回復しません。弱気になっていたお母さんは主治医の先生に「気管切開した方が痰が楽に吸引できるのではないでしょうか。」などと訊いていたのですが、その時に呼吸のリハビリを受けるように勧められました。

 呼吸のリハビリは、エヘンと咳払いができないともちゃんに代って、痰を切ったり、痰を出しやすくしたりするものです。ともちゃんの呼吸状態を把握して、ともちゃんが息を吐くときに、ともちゃんの胸に手を添えて、息を絞り出すようにします。すると痰がゼーコゼーコと押出されてきます。また、ともちゃんが息を吐くタイミングに合わせて、ともちゃんの胸に軽く圧力を加えると、私達がエヘンと咳払いをしたときのような効果があります。押出されてきた痰は吸引器で吸引します。

 このように書くと、誰がやってもしつこく堅い痰をすぐに出せるように思われるかもしれませんが、なかなかうまくはいきません。ともちゃんの血中酸素濃度が下がってくると、お母さんは一生懸命痰を切ろうと努力しますが、呼吸状態が落着くまでに、1時間以上かかっていました。こんな状態が1日に何度も何度も起っていたので、呼吸リハビリの先生が1日に1度病室に来て下さる時間が待遠しいものでした。

 リハビリの先生は胸の音を聞いて痰のある場所を把握し、効率よく短時間で痰を出して呼吸状態を安定にして下さいます。先生曰く「叩いて、揺すって、(痰を)吐かせる」のだそうです。入院当初はともちゃんの痰の絡みはひどく、リハビリの後もすぐにまた痰が湧いてきて、お母さんは痰を出すのに必死になるという状況でした。しかし、リハビリの時間は、技術的なものを学ぶということだけではなくて、この時間は先生がしっかりと痰を切って下さるということで、お母さんやお父さんにとって大きな安心になりました。

 ともちゃんは嘔吐の心配がなくなるまで、しばらく点滴だけで水分を補給していました。でも、点滴だけでは栄養をとることができません。口から食べるのは大変で、それだけで体力を消耗してしまうので、鼻腔からチューブを胃に挿入して、栄養剤を注入することになりました。ともちゃんにとって本格的な経管栄養は初めてなので、お母さんが経管栄養のやり方を修得することも入院中の目的の一つになりました。

 ともちゃんは強度の食物アレルギーがあるので、注入する栄養剤としては牛乳アレルギーの赤ちゃん用のミルクを使うことになりました。通常の経管栄養剤はともちゃんのアレルゲンである大豆が原料として使われており、ともちゃんは食べることができません。牛乳はアレルゲンの検査結果では何も出ていないのですが、昨年の秋に牛乳を飲んでアレルギーのような症状がでたので、大事をとって牛乳アレルギー用のミルクになりました。

 痰が絡んで口から食事をとることが困難なともちゃんにとって、注入をすることになれば、順調に栄養が摂れるようになるとお母さんは安易に考えていました。しかし、注入での食事が軌道に乗るまでは時間がかかりました。最初の問題は注入のタイミングでした、痰の絡みがひどく、呼吸状態が不安定になることが多いともちゃんでしたが、注入中は痰を吸引することはできません。呼吸状態が少し安定してきて、ともちゃんに必要な最低限のカロリーを注入で賄おうとして、注入するミルクを濃くすると下痢をしてしまいました。

 それでも、やはり注入の効果はてきめんで、注入が軌道に乗ってくると、昨年末からあった口内の傷もよくなって、ともちゃんの栄養状態がどんどんよくなっているこよが分かりました。口の中の傷は、ともちゃんが自分の歯で噛んでしまったのですが、長い間薬を塗っても治らず、直径1cmくらいの円形にえぐれて腫れていたものです。ともちゃんの栄養状態がよくなると、少しずつ活力が戻り、コンコンと咳込む反応が出るようになってきました。これで、痰が切りやすくなります。また全身の状態が良くなったことで、しつこく堅い痰もなくなってきました。

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2000年3月9日(木)

点滴がとれ、全身状態が良くなってきたので退院したともちゃんですが、14kgまで減っていた体重もようやく増えだし、15kgになりました。まだまだ以前のような元気はありませんが、これからは外来で診てもらいながらの自宅療養です。

 もちろん鼻には鼻腔を通して胃まで挿入した注入用のチューブをつけたままです。入院中に確立したともちゃんの食事スタイルは、朝、昼、夕と200ccのミルクを注入し、朝と昼、昼と夕方の注入の間に口からお茶碗一杯のお粥ペーストを食べるというものです。1日5食になり、それぞれの食事に時間がかかる(ミルクの注入は約30分、食事は1時間程度)上に、注入と食事の間は最低1時間以上あけるので、1日の大半は食事に費やしている格好です。

 その上、食事の合間を縫って、薬の注入、水分補給のためのお茶の注入、痰の吸引などをしなくてはならないので、毎日忙しく過しています。まだ体力的にもお出かけは無理ですが、もっともっと元気になって登校を考えるようになれば、食事のスタイルももう少し考えていかなければならないのですが、今は栄養の摂取が第一です。

 鼻腔からミルクを注入する時は、横5cm、縦30cmくらいの厚手のビニール袋(経口用イルリガートルといいます)に、さましておいたミルクを入れます。このイルリガートルには底に50cmくらいの長さのチューブがついていて、チューブの途中にはミルクがポタポタと落ちるのが分かる太くなった部分と、ミルクの落ちる速度を調節するクランプがあります(この部分は点滴の速度調節と同じです)。イルリガートルのチューブの先をともちゃんの鼻から出ているチューブにつないで、ともちゃんの胃の中にミルクを送り込みます。

 入院中はイルリガートルの洗浄と消毒は看護婦さんにしてもらっていましたが、自宅に戻ってからは当然のことながらお母さんやお父さんがしなければなりません。消毒液は哺乳ビンの消毒に使うミルトンでいいのですが(ともちゃんは薬を飲むスポイドや計量カップの消毒用にずっとミルトンを使っています)、問題は洗浄の場所でした。ともちゃんは強い食物アレルギーがあるので、家族の食事が付着しないように気を付けなければなりません。イルリガートルには長いチューブが付いているので、洗う時にはどこかが流し台に接触してしまいます。

 家族の食事の用意をしたり、食器を洗ったりする流し台でイルリガートルを洗うことは避けたいと思いました。口から摂取する場合は口の周りが赤くなったりして、アレルギー反応が弱いうちに気付くこともありますが、直接胃に食物が入る注入では一段と慎重に構えなければなりません。最初は床までの距離がある浴室の蛇口を使って洗浄したりしました。結局、専用の大きな洗い桶を買ってきて、これを流し台にすっぽり入れて、その中でイルリガートルを洗うことにしました。

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2000年3月12日(日)

ともちゃんの自宅装備に酸素濃縮器が加わりました。入院中だんだんと痰の絡みが少なくなり、昼間しっかり目覚めている間は呼吸状態が安定するようになってきました。退院も間近になると、昼間は連続して酸素を吸入しなくても、必要となったときだけ酸素を流せばよくなりました。

 それでも、就寝時と朝起きてしばらくの間、それに口から食事をとる時には酸素吸入が不可欠でした。自宅療養になっても酸素吸入は必要でしょう。主治医の先生から「在宅酸素」にしてはどうですかと勧められました。今までも自宅に酸素ボンベを置いて、在宅で酸素吸入していたのにとお母さんは思ったのですが、「在宅酸素」というのは医療制度上の用語でした。

 医師が在宅で酸素吸入が必要と認めた患者に対して、健康保険扱いや重度障害者医療扱いで業者から酸素濃縮器が貸与されることを「在宅酸素」というのです。酸素濃縮器は空気を取り込んで、空気中の窒素を除去して酸素をどんどん濃縮し、90%の高濃度酸素(残り10%は窒素)を供給する機械です。

 ともちゃんの退院の日に合せて、今まで酸素ボンベを届けてくれていた医療用ガスメーカーに酸素濃縮器を持ってきてもらいました。酸素ボンベを購入していた時は全くの自費でしたから、「在宅酸素」になって経済的にも随分助かります。また、酸素濃縮器はボンベ交換をすることもなく、電源ボタンを押すだけで簡単に酸素が出て、とても扱いやすいものです。

 酸素濃縮器はずんぐりと四角いロボットのような形をしているので、お父さんは「ともちゃんのロボタ」と呼んでいます。ロボタはともちゃんの日常的な居場所であるリビングに設置してもらいましたが、長いホースをつけてもらったので、眠るときは隣の寝室までホースを伸ばすことができます。今日もともちゃんはロボタのホースにつながった酸素マスクを付けて、寝室に行きました。

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2000年3月26日(日)

 ともちゃんが退院して3週間が過ぎ、3学期の終業式となりました。3学期は1日も登校することができないうちに終ってしまいましたが、今のともちゃんにとって登校はまだまだ先の課題です。通知票は今回も先生が自宅まで届けて下さいました。4年生の1年間のともちゃんの出席日数対欠席日数は63勝155敗と完敗でした。

 自宅療養中のともちゃんは、まだ通院以外はずっと家で過しています。食べることを中心にしているので、ともちゃんは1日5食のリズムに、お母さんは1日5回の食事の用意に慣れてきました。食事のリズムが安定してくると、今度は新しい目標を定めたくなってきます。現在のともちゃんの目標は2つあります。決して無理はしませんが、少しでも以前のともちゃんの状態に戻れるようになればいいなあと思います。

 1つ目の目標は口から食べているお粥の量を増やすことです。ともちゃんのお粥はアレルゲン除去米(商品名は「Aカットごはん」)を用いて炊いています。入院前のアレルゲンの検査でお米も陽性だったので、大事をとって入院中からアレルゲン除去米にしてもらっていました。退院してからも、病院の栄養課で購入先を教えてもらい、継続して使っています。

 このアレルゲン除去米はお米の状態ではなく、電子レンジで2分間加熱するとご飯ができるようになっており、200グラムのパックです。ともちゃんの場合はお粥にするので、加熱した後パックから取り出し、なべに湧かしたお湯に入れてぐつぐつと煮ています。1日に1パック分のお粥を作っているのですが、このお粥を残さずに1日2回で全部食べようというのが目標です。

 1パック200グラムのご飯で作ったお粥は、ペースト状にすると茶碗3杯分になります。今までは1日2杯(1杯ずつを2回)食べていたのですが、もっとたくさんお粥が口から食べられるようになると、注入の回数を減らせるようになるでしょう。そして、以前のように鼻腔チューブなしにできるかもしれません。

 元気を取り戻してきたともちゃんは、また以前のように早起きになりました。それで、朝一番の鼻腔からのミルクの注入が早い時間に始められるようになりました。1回目の注入、1回目のお粥、2回目の注入までを午前中に終わらせることができます。こうすると2回目のお粥の時間を長く取ることができるので、このときに2杯を食べるようにしています。経管栄養になる前、ともちゃんは昼食や夕食にはお粥ペーストを2杯食べていました。少しずつ食べる量が増えてきて、3杯を全部食べられる日もあります。

 2つ目の目標は、必要な栄養は注入で摂取するにしても、ともちゃんが味覚を楽しめるようにするということです。ともちゃんは甘い味が大好きです。入院中、初めて口から食べたのは、デザートとして出された缶詰めの桃をシロップも一緒にお粥と混ぜてミキサーにかけたものでした。食事というより甘くてトロリとしたおやつのようでした。病院でのともちゃんの食事は砕かずに出してもらい、お母さんがミキサーでともちゃんの食べやすい硬さののペーストにしていました。

 今はお粥はおかずと一緒にペースト状にして、食事として食べています。おやつを食べる余裕はまだありません。それで、甘い味は水分摂取のときに取ることにしました。酸味が苦手なともちゃんは、甘いメロンジュースやココアが大好きです。体調の良い時は、スポイドで口から入れるメロンジュースやココアを早いペースで飲めるようになりました。

 休日には、お母さんが安いメロンを求めていくつものスーパーをはしごしています。病院では1回50ccのお茶を4回注入する事で水分を補っていましたが、口からジュースをおいしく飲むことで、結果的に注入の回数を減らしていければいいなあと考えています。

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